本能寺の変とは、簡単に言うとどういうことなのかわかりやすく解説!

本能寺の変とは、簡単に言うとどういうことなのかわかりやすく解説!

本能寺の変をわかりやすく解説 歴史
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 『本能寺の変』と言えば、誰もが一度は耳にした事がある、日本の歴史が大きく変わった転換点とも言える出来事です。

 

日本人なら知らない人はいないと思うのですが、いったいなぜ、本能寺の変は起こったのでしょうか?

 

今回は、そんな織田信長の最後である、この事件について簡単に分かりやすく解説して行きます!

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『本能寺の変』が起きる直前の織田家の戦況

『本能寺の変』の直前には織田信長は武田氏を滅ぼし、これによってその領土は、西は播磨(兵庫県)、東は上野(こうずけ)(群馬県)までとなり、宇喜多家など、家臣となった大名を含めると、総石高は700万石を超え、もう織田家の天下統一は、目前にまで迫っていました。

 

この頃、信長は“最後の大仕上げ”として、家臣団をそれぞれの方面で戦わせています。

 

柴田勝家には北陸方面の総司令官として“越後の大名である上杉家”を、

 

滝川一益には“関東地方の大名である北条家”を、

羽柴秀吉には“中国地方の大大名である毛利家”を担当させています。

 

柴田勝家と言えば、織田信長に忠実に仕える人物というイメージが強いのですが、元々は信長の父、信秀が亡くなると弟の信行の家老として、信行を支え一時期は信長を倒そうとした過去があります。

 

次に滝川一益ですが、彼は諸国を流浪した末に信長に仕え、実力でのし上がった人物です。

 

織田軍団の花形ともいえる関東方面軍の司令官となっています。

 

そして、羽柴秀吉。

尾張出身の農民の生まれといわれ、信長に仕えるまでは“放浪”を繰り返していたと言われます。

 

そして、明智光秀。

秀吉同様に若いころに放浪していたし、信長の家臣になる以前の資料が少ないなど、どちらもパッとしない身分だったようです。

 

丹波平定により、信長は激賞と言っても良い評価を与え、“畿内方面軍の司令官”になっている。

 

ところで、織田信長と言えばどんな人物だったのでしょうか?

 

ある著書によれば『信長はむしろ信頼を寄せた人間に裏切られることの多い武将だった』と言います。

 

実弟に裏切られ、義弟に裏切られ、同盟相手の武田信玄に裏切られ、足利家擁立の同志、松永久秀に裏切られと言った具合です。

 

信長は、非常に有能な政治的・軍事的指導者ではあっても、『他人の心理を読み取る能力はほとんど皆無の独善的な性格』だったと言えるでしょう。

 

特に、秀吉の毛利征伐を側面から支援するため、長曾我部との同盟を推進してきた光秀を無視して、長曾我部に無理難題を押し付ける掌(てのひら)返しを行いました。

 

挙句は、秀吉の援軍としてその配下に入れという命令。

 

信長は「天下統一」という大目標の為には、状況が変わったらコロッと約束を破る。

 

平気で部下の梯子をはずす上司です。

 

さらには、自身の方面軍司令官は皆、中途採用や昔の裏切り者。

 

信長自身はこの現実にどう思っていたのでしょうか?

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『本能寺の変』の概要はこんな感じ!

1.本能寺の場所: 『本能寺の変』で焼失した本能寺。

その当時は、京都堀川四条の近くにあり、その大きさは、東西150メートル、南北300メートルありました。

2.『本能寺の変』の年号は、天正10年(1582年)6月2日早朝と言われています。

 

3.羽柴秀吉の備中高松城攻撃を救援するために、京都本能寺に宿泊した織田信長が、重臣である明智光秀に急激され、命を落とした事件です。

 

4.信長は応戦するも、少人数の近従しかおらず、光秀の大軍に包囲されたのを悟ると、本能寺に火を放つように指示し、自害して果てました。

 

5.ついで、光秀は、二条御所に宿泊していた、織田信忠を襲い、最終的には信忠も、自害に追い込みました。 この二人の非業の死により、織田政権は崩壊しました。

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本能寺の変とは、簡単に言うとどういうことなのかわかりやすく解説!のまとめ

 もう少し、詳しく言うと、長男信忠は、宿舎の二条御所から、ひとまず“妙覚寺”に逃げ込み、徹底抗戦を図っています。

 

この時点では、信忠には、まだ、京都を脱出するチャンスは残っていました。

 

明智軍は急な裏切りだったため、まだ完全に京都を包囲しておらず、現に織田有楽斎と息子の三法師は京都から脱出しています。

 

ところが、信忠は父信長の自害を聞いて、そのまま後を追うように自害してしまいました。

 

この時、家督は信忠に譲られていました。

 

信忠は、己の立場を考えれば、自害ではなく、脱出し、再起を考えるべきです。

 

一部の信忠評としては、兵卒としては果敢に攻めかかる勇気はあるものの、将師としての器ではないというものもありました。

 

対外的には信長は信忠のことをべた褒めしていたと言われていますが、ここになぜ信長が、この時期しきりに、自身の親族などに所領を割譲したかの原因が見えてきます。

 

信長自身の方面軍司令官の主だったものは中途採用か、過去の裏切り者。

 

息子の器では、彼らにいつ裏切られるかと、内心では恐怖感を持っていたのではないでしょうか?

 

その恐怖心があの信長の非情さにつながって、結局、自身の破滅を招いたとも考えられますね。

 

光秀以外の人物が謀反(むほん)を起こし、織田家を滅亡させる可能性も大いにあった、光秀が凶行に走ったのは単なる偶然だったのかもしれません。。。

 


最後までご覧いただきありがとうございます。

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