豊臣秀吉の子孫が現代にいた?まさかのあの家系が血を受け継いでいる??

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豊臣秀吉の子孫が現代にいる? ニュース
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豊臣秀吉の子孫が現代にいる?

豊臣秀吉と言えば、知らない人のいない位、無類の女好きで、側室がたくさんいました。

 

秀吉の長浜時代に子をなした側室が一人いたのですが、その子は早逝(そうせい)したと記録に残っていますので、結局は淀殿との間にできた子が二人だけだと言われています。

 

そのうち、一人はやはり早逝(石松丸:5歳で没)いますから、成人した子供は“秀頼”だけのようですが、大阪城落城以後、秀吉の血筋はどうなっていったのでしょうか? 

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豊臣秀吉の女性関係

秀吉は天性の人たらし。

ドラマなどで描かれる秀吉像はこういった性格で、よい面だけが強調されています。

 

では、第三者から見てどうだったのか。

 

イエズス会の“ルイス・フロイス”の『日本史』には、秀吉の人物評が出ています。 

 

いわく、秀吉は優秀だが、気品がなく、極度に淫蕩(いんとう)で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺(たんでき:熱中する)していた。

 

家臣だけでなく外部の人達にも嫌われていた、とボロクソです。 

 

女性関係については、齢(よわい)50を過ぎていながら、300人以上の側室を囲い、肉欲と不品行において、極めて放縦(ほうじゅう)に振る舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取っているかのように見えます。

 

この極悪の欲情は、彼において留まるところを知らず、其の全身を支配していたと、フロイスは述べています。

 

浮気癖がひどく、正妻の“おね”はいつもヤキモキさせていられたようですが、秀吉はとにかく“美人”にしか興味がなく、信長のような『男色』には一切その気がなかったというのは、この当時の武家社会には珍しいとも言えます。

 

ただまあ、これだけ側室がいて、はげんでいれば、アラブの“サルタン”のように、何十人と子供がいて当然なのが、“秀頼”を含めたった3人のみ、しかも他の二人は早逝しているという哀れさです。

 

秀吉の血を受け継ぐ人間は、豊臣秀頼以外にはいなさそうですね。

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嫡男“豊臣秀頼”以後の子孫はどうなったのか?

たくさんの側室を寵愛しながらも、子宝に恵まれなかった天下人、豊臣秀吉。

 

57歳にしてようやく“秀頼”を授かるものの、その“秀頼”は大坂の陣で最期を迎える事になりました。

 

これで豊臣秀吉の血筋は途絶えたのか?と考えてしまいますが、実はもう少し先があります。

 

秀頼は家康の孫娘、千姫との間には子を為しませんでしたが、側室との間には一男(国松)一女(奈阿姫)を設けていました。

 

まず、この奈阿姫も、当然“秀頼”の子として市中を引き回して、さらし者にされた後、六条河原で斬首(ざんしゅ)となる訳ですが、彼女については、千姫が家康に嘆願し、奈阿姫は処刑を免れ、出家させられ、鎌倉東慶寺の住職、天秀尼として生涯を終えます。

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豊臣秀頼の嫡男“国松”のその後は?

 国松は大阪城落城後、市中に潜伏していたところを探し出され、処刑されたとなっていますが、それは別人だったという説があります。 

 

なにしろ国松は妾腹(側室の子)なので、正室の千姫に遠慮して、大阪城内では育てられていなかったんです。

 

そのため、追手である徳川方には“国松”を識別できるものがおらず、国松と仲の良かった子どもに首実検させたと言われています。

 

国松がほとんど人相を知られていないという好条件を加味すれば、逃げ延びたという説も決して突飛とは言えないでしょう。

 

その後、国松は九州・薩摩に落ち延びて島津氏にかくまわれたのち、豊後の国(大分県)日出藩の藩主、木下延俊の四男、木下延由として生きたと言われています。

 

この木下家は秀吉正室“おね”の実家なので、国松をかくまうのは筋の通る話です。

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豊臣家の血筋を引く人物が一人、江戸時代を生き抜いて現代まで続いています!

豊臣家の血を継承する人物は、秀吉の姉、日秀尼と三好一路(秀吉の家来衆の一人)の子、豊臣秀勝と淀殿の妹、お江との間に生まれた子、「豊臣定子(とよとみのさだこ)」です。

 

要は、豊臣秀吉の姉の孫です。

定子は大阪城で淀殿に姫君として育てられます。

 

その後、大阪城落城の10年以上前に、定子は、公卿(くげ)の最上位、名門九条家に嫁ぎます。

 

夫は後に関白に任じられる九条忠栄でした。

 

そして結婚後、豊臣家が滅亡すると、実母の夫、徳川秀忠の養女となります。

 

定子は67歳で天寿を全うしますが、子供にも恵まれ、血筋は脈々と続きます。

 

この定子の子孫が、九条家から大正天皇の皇后として天皇家に嫁ぎ、昭和天皇を生む事となります。

 

ということは、天皇家が豊臣一族の血を受け継いでいるということなんです!

 

ちょっと驚きですね~。

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豊臣秀吉の子孫が現代にいた?まさかのあの家系が血を受け継いでいる??のまとめ

 父の秀吉は身長140センチの小男だったのに、秀頼は身長197センチ、体重161キログラムの大男だったという記録が残っています。

 

しかも、懐妊時期から見ても、極めて不自然。

秀吉自身も『懐妊・出産』した際には『不自然』を感じていたはず。

 

但し、幾ら年齢を経ても、他の輩の種だとは言えなかったでしょう。

 

過去の側室達の関係から見ても、秀吉は、「無精子症か、それにきわめて近い病状だった」と推測できます。 

秀頼の体格から見ても、秀頼は実子でないというのが、真実なのではないでしょうか?

 

淀殿にとっては、豊臣秀吉は父浅井氏の仇であり、母お市の方の仇でもあります。

 

女の最大の武器を使って、親の仇を取ったという考えかたもありそうですね。。。


最後までご覧いただきありがとうございます。

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