鑑真の失明の理由は何だった?本当は失明していなかった??

鑑真の失明の理由は何だった?本当は失明していなかった??

鑑真は失明していなかった? 歴史
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鑑真は失明していなかった?

人生100年。 

 

目標さえ確たるものを持っていれば、「七転び八起き」、何にでも挑戦できるとは言いますが、実際には、そんなことが出来る人はそうはいません。

 

たいていは妥協して一段も二段も低いレベルで納得するか、完全に諦めてしまうかのどちらかでしょう。

 

でも、世の中には『ド根性にもほどがある!』といった人物もごく稀に実在します。

 

今から1300年前、唐の国から渡来した、「鑑真和上(がんじんおしょう)」です。

 

6回目の渡航でようやく日本にたどり着きましたが、その時には、すでに失明していたと言われています。

 

今回は、この「鑑真和上」の失明の理由や、本当は失明していなかった、などと言うお話しについてもご紹介していきます。

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「鑑真和上」の功績とは

 「鑑真和上」の渡来前に、仏教そのものは既に日本に広まっていました。

 

ただし、何事も黎明期(れいめいき)にはよくあることで、あまり制度が整ってはいませんでした。

 

当時の日本では、僧侶には“税”が課せられないことから、脱税の為、名前だけ出家するという不届き者が蔓延していました。

 

そんな時代、聖武天皇は、仏教によって国家の安定と繁栄を願っていました。

 

そこで、当時、「本当に仏の教えを守る気のある人だけが、僧侶になれる」と言う制度が必要と考え、中国の唐に、それを教える事の出来る候補を探し、白羽の矢が立ったのが、「鑑真和上」でした。

 

つまり、「鑑真和上」が日本を目指した理由は、「税金逃れの為だけの“私度僧(無免許の僧侶)”を防ぎ、上位の僧から“僧の身分・免許”を下される“授戒制度”」を日本に伝えようとしたことからなのです。

 

これによって、混乱していた日本の仏教界は正常化され、更には、「鑑真和上」は「律宗」の開祖となった事で、「唐招提寺」を建立し、貧民救済や孤児を救う活動を生涯行ってくれた事にあります。

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「鑑真和上」はなぜ渡来前に失明してしまったのか

「鑑真和上」は6回目の渡航で、ようやく成功しましたが、その前の5回はすべて失敗でした。

 

しかもその失敗のほとんどの原因は、弟子たちの密告(裏切り)によるものです。

 

このうち5回目の渡航は外洋には出港できたものの、台風に遭遇し、結局“海南島”に漂着して、失敗。

 

この“海南島”で一年間を過ごしたのち、出発地の“揚州”に戻る途中に、失明したと『続日本紀』には記録があります。

 

その原因は何だったのかは、推測の域を脱しませんが、多くの眼科医の見解をみると、『白内障』ではなかったのかと言われています。

 

そして、失明の原因は、漂着した“海南島”の高温多湿の気候と、強烈な紫外線です。

 

“海南島”は香港よりもさらに南。 ハワイとほぼ同じ緯度にあります。

それらが、加齢によって元々軽い『白内障』を患っていた、「鑑真和上」の病気を進行させたのでしょう。

 

更には、愛弟子であり、日本への渡来を懇願した、日本人僧侶「栄叡(えいえい)」が病死したことなどが、「鑑真和上」にとっては、強烈な精神的ストレスだったのでしょう。

 

紫外線とストレスは『白内障』を悪化させる要因だと言われていますので、おそらくこれが理由なのではないでしょうか。

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「鑑真和上」は完全に失明してはいなかった?

 「鑑真和上」は5回目の渡航失敗の後、「揚州」に戻る途中で、激しい熱病に冒され、白内障が悪化しました。

 

その当時の手術を受けたものの、結局、その手術の後遺症で失明したようです。

 

ただし、「鑑真和上」の場合は、視力は完全に失われておらず、視力が残っていたのではないかと言う説もあります。

 

正倉院に伝わる「鑑真書状」は、従来は弟子によって書かれたとされていましたが、筆跡が今までに見つかった弟子の筆跡と異なる事が明らかになっています。

 

また、その書状の「鑑真」という署名がかなり崩された文字であり、弟子が師匠の署名を崩して書くなどは有り得ないという事、さらに視力がなければ、無理な、二度書きの跡も発見されたということです。

 

後世の人が、話をよりドラマチックにするために多少『盛った』のかもしれませんね。 

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鑑真の失明の理由は何だった?本当は失明していなかった??のまとめ

最終的に成功した、6回目の渡航は、たまたま十数年ぶりに派遣された「遣唐使」の船に、幸運にも乗船する事ができたからなのですが、、、

 

日本への渡航を、唐の玄宗皇帝が反対していました。

 

そのため、遣唐使の正使である日本の役人は、後々もめることを恐れて、「鑑真和上」の乗船を拒否。

 

万事休すのところ、あえて命令を無視した副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の助けで、彼の船に密航できたため、ようやく日本に到着しました。

 

この正使の船は最後どうなったかというと、結局遭難し、日本に帰ることはできなかったんです。

 

皇帝の命令を無視して鑑真を日本に連れて行ってしまった報いなのか、天罰・仏罰を受けたのか・・・

 

その真意は、歴史のみぞ知るというところですかね。。。

 


最後までご覧いただきありがとうございます。

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