五度の渡航失敗を乗り越え、日本に正しい仏教の教えを伝えた古代中国・唐の名僧、鑑真。
鑑真はなぜ命がけで海を渡り、日本にやってきたのか?
日本にたどり着くまでに要した年月は、10年以上!
五度に及ぶ失敗には、弟子のまさかの裏切りが有ったりと、苦難の上にようやくたどり着いた日本では、保身に走る日本の僧侶たちの猛反発。
今回は、名僧・鑑真の波乱万丈の人生を辿ってみたいと思います。
鑑真はなぜ日本に渡ったのか?
西暦688年、鑑真は唐の揚州の裕福な家に生まれました。
14歳のときに見た仏像に感激し、自ら進んで出家し、仏門に入ったと言われています。
20歳のときに唐の都、長安に遊学し、西暦708年21歳のときに“正式な僧侶”と認められました。
40歳で、“授戒の大師(僧侶に戒律を授ける僧侶)”となり、唐を代表する“名僧”といわれるほどになりました。
一方、日本では、『聖武天皇』が、仏の力による、安定した国づくりを目指していました。
しかし、当時の日本の仏教界には、それに尽力できるような僧侶は皆無だったのです。
そこで、聖武天皇は、戒律に通じた高僧を唐から招くように、当時日本最大の寺院であった「興福寺」に命じます。
“その役目を担う僧”として選ばれたのが、“栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)”という、若い2人の僧侶でした。
彼らは、留学僧として遣唐使で唐に向かいます。
そして留学9年目にして2人は鑑真に、今の日本に“正しい戒律を伝える事の出来る僧侶”を送って欲しいと、懇願したのです。
それを聞き鑑真は、「これは、仏法に関わる話だ」として、自らが日本に渡航することを申し出たのです。
その後、鑑真はその当時の唐の皇帝に日本渡航を申し出たのですが、皇帝の許可が下りず、最終的には“密航”という形での出国となったのです。
これが、艱難辛苦(かんなんしんく)のスタートとなりました。
五度の渡航失敗の全貌とは?
ここでは、鑑真の6回に及ぶ日本への渡航の詳細をご紹介します。
一回目の渡航
鑑真の弟子の一人が、日本人の栄叡と普照は倭寇(海賊)だと役人に“密告”。
二人は捕らえられ、後に釈放されるが、その為に結局密航は失敗。
二回目の渡航
同じ年に、再度出港したが、台風に遭遇して遭難。
三回目の渡航
翌年、出港しようとしたが、又も、弟子の密告で、栄叡が捕まり、役人の助けで解放されるが、渡航失敗。
四回目の渡航
揚州は長安に近いので、遠方の“福州”から出向しようとしたが、やはり、弟子の密告で、今度は全員が逮捕される。
五回目の渡航
揚州から出港するが、台風に遭遇し、14日間漂流したのち、広東省の海南島に漂着。
この時には栄叡が病死し、鑑真も両目を失明してしまう。
六回目の渡航
三年後、20年ぶりに日本から遣唐使船が到着。
それでも、時の皇帝玄宗は出国を認めず、結局、副大使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の船にかくまってもらって出港。
11年目にして、ようやく日本に到着しました。
よくここまでして日本に行こうとしてくれましたよね。
よほど強い決意があったのだと思います!
鑑真が日本で反発を受けた理由とは?
日本に上陸できた鑑真は、奈良平城京に入り、聖武天皇の娘『孝謙天皇』から、日本に“戒律”を伝えることの勅許(ちょっきょ)を受けました。
この結果、鑑真により、伝えられる“授戒の作法”は、天皇により、日本での正式な作法として認められることになったのです。
ところが、この“授戒の作法”では
三師七証
(三人の指導者と、七人の立会人がいないと戒律は受けられない)
が必須となります。
ここで、すでにこれまでに日本式の戒律を受けている人たちは、この三師七証を受けないといけないのか、受けなくてもいいのかという問題が出てきました。
鑑真は、彼らにそれが必須であることを説明したのですが、一気に不満の声が出てきたのです。
これまでの僧侶は、租税や労働と言った厳しい税負担から逃れるために勝手に出家し、法典の勉学を全く行わないような、名ばかりの僧侶が多く、今さら修行をしたくないという理屈ですね。
そんな中、声を上げたのは“普照”という僧侶でした。
“戒律の法典”があっても、それを正しく講義できるような僧侶もいなかった、というその当時の日本の仏教界の欠点を指摘したのです。
鑑真和上が伝える、正しい“授戒”を受けてはじめて僧侶になれる。
それ以前のものは僧侶でないと断言しました。
その結果、不満の声はおさまったということです。
その後、鑑真はそれまでに伝わっていた、大乗仏教の根本となる「経典」の校正作業を行い、最後は、仏教の指導者である、「大僧都(だいそうず)」に任命され、71歳で高齢のため、引退しました。
最後に唐招提寺を建立し、76歳で座禅を組んだまま静かに息を引き取ったとされています。
人生を仏教のために捧げた鑑真和上、すごい根性・執念ですよね。
なかなか真似できません。。。
鑑真とは?波乱の生涯について詳しく解説!物語を知ると覚えやすくなる!のまとめ
鑑真の活躍から約1000年後、唐招提寺を訪れた松尾芭蕉は鑑真の座像を目の当たりにして
『若葉して 御目の雫 拭わばや(ぬぐわばや)』
と詠んでいます。
命がけで海を渡り、日本の仏教を正しい仏の道へと導いた、苦難を思い、つぶった大きな眼(まなこ)から、涙の雫が落ちるように見え、思わず若葉で拭ってあげたいと思ったという内容です。
空海や最澄は、仏教を日本に伝えましたが、それはあくまで、『個』としての救済であり、それに対して、鑑真は、あまねくすべての日本人に“正しい仏教”を広めたという意味で、『衆』の救済であったと言えます。
日本の仏教の発展には、鑑真は欠かせない人だったんですね。
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