大久野島は危険な島だった?恐怖ポイントを5つご紹介します!

大久野島は危険な島だった?恐怖ポイントを5つご紹介します!

大久野島は危険な島だった?恐怖ポイントを5つご紹介します! 旅行
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うさぎ島と呼ばれ、多くのうさぎに囲まれた平和な島、大久野島。

 

訪れる観光客は1,000羽はいると言われるうさぎたちに囲まれ心を癒されます。

 

動物好きにはたまらない魅力の大久野島ですが、かつては危険な島だったことをご存知ですか?

 

「毒ガス島」という悪名を持ち、人々に恐れられた島。
大久野島にはそんな黒い歴史があるのです。

 

平和を願うためには忘れてはいけない大久野島の過去を調べてみました。

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大久野島の危険ポイント① 大久野島は地図から消された?

大久野島の危険ポイント① 大久野島は地図から消された?

今では国民休暇村ができ、島全体が国立公園となった大久野島ですが、かつては旧陸軍の毒ガス製造所がありました。

 

そのため、大久野島は「毒ガス島」と呼ばれていました。

 

島に毒ガス製造所ができたのは1929年5月19日のことです。
旧陸軍は第一次世界大戦中から毒ガス兵器の研究に着手、1925年にドイツの科学者メッツナー博士を招いて開発を進め、致死量の毒ガスを製造することに成功しました。

 

大量生産をするにあたり、工場の建設を大久野島に決定し、当時島に暮らしていた3世帯を強制移住させ、毒ガス製造所を開所させました。

 

それに伴い、軍事機密の保持のため大久野島は地図から消されてしまったのです。
地図上は海の中ということになりました。

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大久野島の危険ポイント② 大久野島で製造された毒ガスとは?

大久野島の危険ポイント② 大久野島で製造された毒ガスとは?
大久野島で最初に製造されたのは、毒ガスの需要が少ないこともあって、「サイローム」という殺虫殺鼠剤でした。

 

その後、戦争が激しくなるに従って毒ガス製造が盛んに行われるようになります。

 

大久野島で最も多く製造されたのは、最も殺傷能力の強いことで知られるマスタードガス(イペリット)でした。
他にも「ルイサイト」や嘔吐剤の「ジフェニルシアノアルシン」など7種類の毒ガスを製造しましたが、数はマスタードガス(イペリット)には及びませんでした。

 

大久野島での生産のピークは1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)頃までで、以降は戦争が長引くにつれ、海外から物資が届かなくなったために生産は縮小されています。

 

毒ガス製造所の開所からの生産総量は約6,600トンということです。

 

毒ガス製造所ができてからの大久野島は、白地に黒文字で「立入禁止」と書かれた立て看板が島の周囲に建てられ、島全体を樹木で覆い隠すようにされました。

 

機密保持のために箝口令が敷かれ、憲兵が厳しく監視していたといいます。
また、「大久野島を見るな」と言われ、撮影することも禁止されました。

 

呉線では大久野島に近くなると海側の窓を鎧戸で閉められ、その姿を見られなくしていたという記述も残っています。

 

大久野島は、かつては人を寄せ付けない厳重な警戒体制の島だったのです。

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大久野島の危険ポイント③ 大久野島のうさぎは実は・・・

大久野島の危険ポイント③ 大久野島のうさぎは実は・・・

今でこそうさぎは大久野島のマスコットとして愛らしい姿を観光客に見せていますが、その昔はうさぎといえば毒ガスの実験材料でした。

 

サイロームや青酸ガスを発生させて、うさぎを使って毒性実験をしていたのです。

 

残酷な話ですが、当時は「うさぎもお国のために働く」と考えていたのかもしれません。
特に「かわいそう」とも思わずに当然のことのようにうさぎは実験動物として飼われていたのです。

 

これらのうさぎは戦後の毒ガス関連施設処理の際に全羽処分され、その子孫は1羽もいないということです。

 

今のうさぎはそんな恐ろしい目にあったうさぎのことも知らずに「うさぎの楽園」と様変わりした大久野島を楽しんでいるのでしょう。

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大久野島の危険ポイント④ 大久野島には今も戦争の爪痕が

大久野島の危険ポイント④ 大久野島には今も戦争の爪痕が

大久野島には「うさぎの島」というネーミングとは様相を異にするコンクリートの廃墟が点在しています。

 

例えば毒ガス貯蔵庫跡。
島内にいくつかある毒ガス貯蔵庫跡の中で最も大きなものが長浦毒ガス貯蔵庫跡です。
ここにはかつて毒ガスが100トンも入るタンクが6基も置かれていました。

 

現在でも巨大な貯蔵庫跡とコンクリートの台座が残っており、恐ろしさを感じさせます。
毒ガスを製造するための電力を供給する発電所の跡も廃墟と化しています。

 

戦時中は重油を燃料とした発電機が8基設置されていました。

 

島には3ヶ所に砲台が設置されました。
その砲台跡も現在も残っています。

 

火薬庫跡は、第二次対戦中は毒ガスの製品置き場として使用されていました。
壁は煉瓦作りですが、屋根は爆発事故を考えて軽く作られていました。

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大久野島の危険ポイント⑤ 毒ガス資料館

かつて大量の毒ガスを製造していた大久野島。

 

その黒い歴史と戦争の悲惨さを訴え、恒久的な平和を願うために1988年(昭和63年)に毒ガス資料館が作られました。

 

館内には工員手帳や作業服、液体毒ガス製造装置などの貴重な資料が展示されています。

 

過去に毒ガス製造が行われ、多くの人の命が失われた事実や作業に携わった人々が今もなお後遺症に苦しんでいることも忘れてはいけないと毒ガス資料館は言っているように聞こえます。

 

大久野島についてたびノートで調べてみる 

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大久野島は危険な島だった?恐怖ポイントを5つご紹介します!のまとめ

大久野島は危険な島だった?恐怖ポイントを5つご紹介します!のまとめ

昨今のコロナ禍により観光客が減少し、1,000羽はいたと言われるうさぎたちも600羽前後に減ったという噂のあるうさぎ島ですが、それでもうさぎたちに囲まれて平和そのものの大久野島。

 

しかし、その陰で毒ガス製造の過去を持ち、そえに関わった人たちやうさぎたちの多くの命が失われた事実があります。

 

モフモフしたうさぎたちに癒される魅力的な島として再出発した大久野島ですが、毒ガス製造の危険な島だったという事実も忘れてはいけません。

 

うさぎと戯れるだけではなく、今は廃墟となった戦争の爪痕もしっかり目に焼き付けることも大切なことではないでしょうか。

 

大久野島の陰と陽を見つめてこそ平和の有り難みがわかるのです。

大久野島に旅行に行く際にぜひ参考にしてくださいね。

 

大久野島のうさぎがカワイイから持って帰りたい!と思った方は、以下の記事がおすすめです。

 


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