奥の細道の冒頭ってどんな感じなのか内容をわかりやすくまとめみた!

奥の細道の冒頭ってどんな感じなのか内容をわかりやすくまとめみた!

奥の細道冒頭 文学
スポンサーリンク

奥の細道冒頭

『奥の細道』とは、江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉が、門人の河合曾良を伴って、江戸深川を出発し、奥羽から北陸を経て美濃国の大垣に至るまでの約6ヶ月の旅の記録をまとめた紀行文と言われています。

 

ですが、芭蕉がみちのくを旅したのは元禄2年の春から秋。 

その後3年以上を推敲に費やして『奥の細道』を発表しています。

 

但し、旅のルートや宿泊地、情景の描写などは事実と異なる点が多く、あえていえば、『奥の細道』は、構成を練りに練った文学作品、つまりはフィクションだったようです。

 

ただ、その思いの目指すところは言葉遊びだった「俳諧」を、心の世界を取り込み、“芸術性の高い文学”にまで高めた事です。

 

今回は、この『奥の細道』にまつわる項目を解説し、冒頭の序文につなげて行きたいと思います。

スポンサーリンク

『奥の細道』のルートとその当時の奥羽情勢

元禄2年春。 

芭蕉は旅立ちの準備を進め、墨田川のほとりにあった“芭蕉庵”を引き払い出発。

 

草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家」 を詠んでいます。

 

その後、日光⇒那須 温泉神社 殺生石⇒白河の関⇒“松島”⇒平泉と進み、

 

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと

 

五月雨の 降り残してや 光堂

 

などを詠みました。

 

さらに、⇒尾花沢⇒立石寺(山形県)で、

 

閑さ(しずけさ)や 岩にしみ入る 蝉の聲

 

を詠み、

 

新庄 

「五月雨を あつめて早し 最上川」

 

⇒出雲崎(新潟県) 

「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」

 

⇒金沢⇒山中温泉などを巡り、

⇒越前 吉崎⇒丸岡 天龍寺⇒敦賀⇒大垣に到着、 

 

結びの句「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ 行く秋ぞ

 

となるのでした。

 

ところで、芭蕉は出発前、“松島の月まず心にかかりて”と、松島を訪れる事を楽しみにしていたのですが、たった一泊しかしなかったのです。

 

これは、仙台伊達藩が日光東照宮修繕に対して幕府に不満を持っていたことから、

 

伊達藩の謀反(むほん)を警戒した、動向調査が目的だったのでは?

 

と言う突飛な話もあるようです。

 

まあこれは、あまり信ぴょう性は薄いみたいですが。。。

 

スポンサーリンク

『奥の細道』の作者であり俳諧師:松尾芭蕉ってどんな人?

 芭蕉は、寛永21年(1644年)、“忍者の里”で知られる伊賀の国で生まれました。

 

父は苗字・帯刀を許された農民である松尾与左衛門。

 

母は、伊賀流忍者の祖とされる百地丹波(ももちたんば)の子孫だと言われています。 

 

成長後、伊賀国を治めていた藤堂良忠(藤堂高虎の一族)に仕えます。

 

この良忠の影響で俳句を学び、“蝉吟(せんぎん)”と言う俳号を持っていましたが、良忠が早逝したため、藤堂家を出て、江戸に移ります。

 

その後、宗匠(そうしょう:師匠)となった芭蕉は、深川に暮らし、

 

『侘び(わび)、寂(さび)、撓り(しおり)、細み(ほそみ)、軽み(かるみ)』

 

を重んずる薫風俳諧を確立しました。

 

『奥の細道』の他にも何回か旅に出ていて、「野ざらし紀行」や「更科紀行」など多くの文学作品を生んでいます。

スポンサーリンク

松尾芭蕉の同行者、河合曾良(かわいそら)って何者?

河合曾良は、信濃国高島城下(現在の長野県諏訪市)に生まれました。

 

長嶋藩松平康尚に仕えた後、芭蕉の門下に入っています。

 

『奥の細道』における、奥羽・北陸行脚に随伴したことで名が知られています。

 

芭蕉十哲の一人で、彼は神道や地理、全国の神社仏閣に詳しく、性格も几帳面で、一緒に旅するのには最適の人物だったようです。

 

加賀国(現在の石川県)の山中温泉で芭蕉も曾良も体調を崩してしまったのですが、曾良は体調悪化がひどく、二人はここで別れ、曾良は伊勢長嶋に戻っています。

 

その時に詠んだ俳諧が

 

行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原

 

です。 

 

実際は芭蕉が一部添削しているようで、原文を読むと、あまり俳諧の才能があったようには見えません。

 

ただし、「曾良随行日記」を精読した人に言わせれば、曾良はなにより「実直」な人だったようで、自分の体調が悪いのに、芭蕉が訪れる地に先回りし、宿を押さえたり、金を置いて行ったりしています。

 

芭蕉はその「実直さ」を愛したからこそ、同行者に曾良を選んだのでしょう。

スポンサーリンク

『奥の細道』の序文と芭蕉が旅に出た経緯

芭蕉は51歳の時に亡くなっていますが、俳諧師として名を成したものの、41歳で人生の転機を迎えています。

 

芭蕉庵の焼失、故郷の実母の死、飢饉の発生など、心痛が重なったことを契機に、残り少ない人生を考え、自身の俳諧の完成を目指して旅に出ました。 

 

『奥の細見』の冒頭部分には、

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

 

とし、更に、『故人も多く旅に死せるあり』と記しています。

 

これは、芭蕉が尊敬していた西行法師や宗祇(そうぎ)、中国の李白(りはく)や、杜甫(とほ)などと同じように、自分も旅に生き、旅で死にたいと思っていたのではないでしょうか?

 

芭蕉にとっては、人生を賭けた旅だったのでしょうね。

スポンサーリンク

奥の細道の冒頭ってどんな感じなのか内容をわかりやすくまとめみた!のまとめ

 『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

 

これは、松尾芭蕉の辞世の句と言われています。

 

病中吟だ!と一部の学者たちは言っているようですが、大切なのはそんな水掛け論争ではなく、その心なのではないかと思います。

 

故人も多く旅に死せるあり・・・、これが全てを物語っていると思います。

 

真偽のほどはどうであれ、まずはその心意気をかみしめたいものです。。。

 


最後までご覧いただきありがとうございます。

良ければシェアしてもらえると嬉しいです。

あなたにオススメの関連記事は下にあります。


文学 歴史
laclifeをフォローする
スポンサーリンク
L&Cライフ

コメント

タイトルとURLをコピーしました