大久野島は毒ガスの人体実験島だった?実はうさぎも・・・?

大久野島は毒ガスの人体実験島だった?実はうさぎも・・・?

大久野島は毒ガスの人体実験島だった?実はうさぎも・・・? 旅行
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広島県竹原市の忠海から約15分のミニ船旅を楽しみ、船を降りれば、島の住人であるうさぎたちがお出迎えしてくれる・・・

 

そんなおとぎ話が現実となるのが瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島です。

 

現在600羽以上はいるという数多くのうさぎたちが住む大久野島は、「うさぎの島」と呼ばれ、観光客がうさぎ目当てに日々訪れています。

 

そんな平和の島・大久野島が過去には「毒ガス島」と呼ばれ、恐ろしい毒ガス製造に携わっていた時期がありました。

 

人体実験も行われていたという身の毛もよだつ噂もあるといいます。
今回は、大久野島の知られざる過去を掘り下げてみました。

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大久野島が毒ガス島になったのはなぜ?

大久野島が毒ガス島になったのはなぜ?

大久野島に最初にできた近代施設は灯台でした。

海の安全を守るため、大久野島灯台は1894年(明治27年)に点灯しました。

その後、大久野島砲台ができ、平和な大久野島も芸予要塞として戦争の色を濃くしたかに見えましたが、日清日露の戦争を経て第一次世界大戦で航空機が登場したことにより、結局芸予要塞は一度も使われないまま廃止されることになりました。

島には平和が戻り、数戸の農家が農耕を営んでいましたが、1927年(昭和2年)に島に軍需工場が建設されることになります。

そのため、農家は強制立ち退きとなり、一般人の立ち入りも禁止されました。

当時、昭和金融恐慌の中にあったため、この工場建設は大久野島景気と呼ばれ喜ばれていました。
しかしこの工場こそ旧日本陸軍の毒ガス工場だったのです。

1925年(大正14年)のジュネーブ議定書で化学兵器の戦争利用は禁止されましたが、当時の日本はこれに対して署名はしたものの批准はしませんでした。

そのため1929年(昭和4年)に工場が開所すると秘密裏に毒ガス製造が始まったのです。

大久野島の毒ガス製造は1945年(昭和20年)まで続きましたが、そのピークは1940年(昭和15年)、1941年(昭和16年)頃だと言われ、総生産量は約6,600トンとされています。

毒ガス製造所が大久野島に設置された理由は、1923年(大正12年)の関東大震災を受けて陸軍は毒ガス製造を地方に置きたいという考えがありました。

そこで、

 

・労働力と資材確保がしやすい
・事故が起きた場合でも被害の拡散が小さい
・中国大陸から近い

という理由で大久野島が選ばれました。

以来、大久野島は地図から消され、毒ガス製造を秘匿するため「立ち入り禁止」となりました。

機密保持のため島全体は植樹され緑で覆われ、建物自体は迷彩が施されたといいます。
平和な農耕の島が毒ガス島に変貌していったのです。

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大久野島のうさぎは当時、実験動物だった・・・?

大久野島のうさぎは当時、実験動物だった・・・?
大久野島で毒ガスが製造されていた頃は、うさぎは現在のような観光のマスコットではありませんでした。

当時うさぎは200羽飼われていましたが、そのすべては毒ガスの効果を試すための実験動物扱いでした。

びらん剤や血液剤などの毒性や耐性を調べるための実験にウサギが使われていたのです。
また、毒ガス製造の過程でガスが漏れていないか検知するための保安装置としてもうさぎが使われていました。

工場の工員の証言によると、当時は「うさぎ鍋にするか」とよく話していたといいます。

当時のうさぎたちは毒ガスの実験や保安装置としての使われ方のほかに食料としても利用されていたようです。

このうさぎたちは戦後の毒ガス施設処理の際に全羽殺処分され、当時のうさぎの子孫はいません。

現在の大久野島のうさぎは、そんな恐ろしい過去を知らないうさぎたちばかりで、人間を信じて生きているのです。

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大久野島で毒ガスだけじゃなくて人体実験もしていた?

大久野島で毒ガスだけじゃなくて人体実験もしていた?

実験に使われていたのはうさぎだけではありませんでした。

ジュウシマツやマウスなども毒ガスの効果を確かめる実験動物にされていたのです。

もっと恐ろしいことには人体実験も行っていたというショッキングな話があります。

関東軍ハルビン憲兵隊本部から送られてくる捕虜の中国人や朝鮮人、ロシア人などを『マルタ』と呼んで実験材料にしていたというのです。

3,000人もの人々が細菌兵器や毒ガスの実験台にされ、使用するガスの種類やガスの濃度また、ガスの注入時間などを確認していたといいます。

731部隊が作りあげた実験の条件のもと、毒ガスの専科部隊である516部隊が人体実験を淡々とこなしていったのだということです。

大久野島にある毒ガス資料館にはこういった人体実験に関する壁画パネルや毒ガス製造に関わる多くの資料が展示されています。

実際に使った防毒マスクや毒ガス工場で着用した作業服、毒ガス弾などの展示や毒ガス被害者の体の写真など直視できないものもあります。

世界でも類を見ない大久野島の毒ガス資料館は、戦争の悲惨さや平和の尊さ、生命の尊さを改めて考える場として1988年(昭和63年)に開館しました。

今では平和学習の場として多くの人がこの資料館を訪れるといいます。

 

大久野島についてたびノートで調べてみる 

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大久野島は毒ガスの人体実験島だった?実はうさぎも・・・?のまとめ

大久野島の毒ガス製造は遠い昔のことのように思われますが、たった76年前に行われたことなのです。

大宇宙からみれば地球が一瞬まばたきしたほどの時間かもしれません。

そんな頃に日本でこれほど凄惨な毒ガス製造が行われていたのです。

エサを求めて人間のそばにやってくる可愛いうさぎを2度と裏切らないためにも、平和の尊さを噛みしめなければなりませんね。

今は国立公園となり、数多くのうさぎたちに囲まれて平和そのものの大久野島となりました。
ですが、過去には暗い歴史があったのだということを忘れてはいけません。

 


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